「会津中街道を語る」

西那須野伊藤-以下「伊藤」、会津野佐藤-以下「佐藤」


●2000年春、メール上にて・・・


佐藤のiMac
「佐藤」ところで相談なのですが、「会津中街道」を実際にWEB上に流そうと思うのですがいかがでしょうか?

「伊藤」もちろん、大賛成です。

「佐藤」では、ホームページ「会津中街道」の構成を一緒に考えていただけないでしょうか。そして当然その中に含まれるであろう街道のあらましや歴史等についての解説や、実際歩いた時のレポートなどを書いていただけないでしょうか?

伊藤のiMac
「伊藤」それは、面白そうですね。

「佐藤」この作業はたいへんかもしれませんが、

「伊藤」これはたいへんに決まっています。それはまず第一に、私のキーボード操作が不馴れな事があります。かなりの時間がかかると思いますが、会津中街道は私のライフワークなので佐藤さんの胸を借りて頑張ってみたいので、ぜひ、よろしくお願い致します。

「佐藤」こちらこそ、よろしくお願いします。中街道への理解を深めるばかりでなく、コンピューターやインターネットへの理解も深まります。さらに、新しい人との出会いも期待できますし、なによりも、私たちがやらないで誰がやる?と思います。

「伊藤」まったく同感です。この事業は、佐藤さんと私のささやかな記念碑的なものになるでしょうが1695年の開通以来の、画期的な出来事のひとつになることは、間違いありません。なぜなら、2000年のこんにち、会津の住人と那須の住人が中街道をとおして、再び向き合う事になるからです。街道は既に存在しませんが、この作業は、過去と現在を往来する、浪漫的な時間の旅になりそうですね。道中よろしくお願いします。まあ、かたくならずに自己満足でいきたいと思います。きっとうまくいきます。佐藤さんと私は、2度も歩いた経験者なんだから。こんなマニアな人たちは、他にいるはずありません。


●2002年


「佐藤」・・・というやり取りが発端となって今までホームページづくりに打ち込んできたわけですが、やっと形になりました。バーチャルで街道をまた歩いたような気分です。

「伊藤」いやいや、私なんてただのヤジウマに過ぎませんが、続ける中で、何かが「はじける」気がするんです。

「佐藤」会津に住む私は、大内宿などで有名な会津西街道の方がなじみがあって、会津中街道の存在は知らなかったんです。それが、伊藤さんに教えられて会津中街道を歩いたわけなのですけれど、伊藤さんにとっては会津中街道は宿命的とも言える発見がもとでのめり込んでいったわけですよね。そのへんを詳しく教えて下さい。

「伊藤」ある日、自宅近くをクルマで走行中、畦道の脇に「会津中街道」と刻まれた石標を、視認した事に始まりました。石標の大きさは、高さ60cm位でした。なぜ、那須の地に「会津」と刻まれた石標が存在するのか?当時、全く見当が付きませんでしたし、周囲の人に尋ねても、知る人はいませんでした。

伊藤ときっかけとなった石標
もともと、会津戊辰史に興味のあった私は、その歴史をひも解くなかで、「会津中街道」という、江戸と会津を結んだ、ひとすじの街道が存在した事を知りました。
それは、1600年の日光西部の大地震によって、戸板山が崩れて川をせき止めたため、会津西街道上に五十里湖が出現し、人馬や廻米等の交通を途絶させたために、会津藩では江戸へ通ずる代替の街道を建設する必要が生じ、既存の道路を結び合わせて一本の街道として、幕府の許可を願い出た・・という言い伝えです。
はじめは順調に完成していった街道ですが、会津と下野の国境の大峠(1468m)では、冬場の自然条件が厳しく交通途絶が度重なり、後に会津西街道が復旧すると本街道から脇街道になり、次第に歴史の表舞台から姿を消したと言われいます。それでも、1886年、磐越西線の開通までは、人馬往来があったと言われています。
今日、「会津中街道」という言葉すら、那須においては死語であり、その存在を知る人はきわめて稀だと思います。しかし、このひとすじの道が、当時の人々の喜怒哀楽の舞台になった「生活と歴史の道」であった事を考えるとこの分断された、あの畦道この境界線を辿り、西那須野の自宅から、会津の佐藤宅まで、会津中街道を辿って歩いてみたい・・この足で。と、思ったのです。

「佐藤」さすがに会津人より会津に詳しい栃木県人といわれるだけの伊藤さんらしい動機ですね。おやっと思ったことを見のがさずに納得いくまで調べ尽くさないと気がすまない性格ですからね。そうしていくうちにいろんなことを知ることができるし、いろんな人との出会いもあるというわけですね。私が歩こうと思った最大の理由は伊藤さんとは全く違って、道そのものに興味があるからです。私と伊藤さんの家は、どんな道でつながっているのか、それを見たかっただけなのです。私は、友達ができるとその人が、どんなところにすんでいるのか、どうやってそこまでいくのか知りたくなってしまいます。スリランカに友人を訪ねたのも、新婚旅行なのに世界の友人の家に泊まって歩いたのもそういう気持ちが常にあるからなのです。そしてその移動中はできるだけ眠らずにどんな景色の中を移動しているのか見ていないと気がすみません。そういう意味では今や車で2時間のこの行程を3、4泊して歩いていくというのは私にとって最高の旅と言えます。

「伊藤」私はどうしても会津戊辰史に興味があるので、舞台はそっちに行ってしまいますが、もし私がその時代に生まれ合わせたものなら、どんな気持ちで「この道の上」を歩いただろうか・・と。もちろんその立場によって感情は様々だと思います。立ち向かう会津藩士の感情、沿線住民の心情、駆け上がって来た西南藩士の激情・・・。一切の当事者は土に還りましたが、なお想念の風は道の上を往来している気がしているのです。時代は下って那須から会津へ向かう人は絶えても、分断された街道にもそれぞれの地域で、「人が生きて来た舞台としての道路」として活用された事を思うと、私は歩かざるをえませんでした。

「佐藤」なるほど。よくわかりました。私の住んでいる会津若松市は周知の通り戊辰戦争の舞台になったわけですが、ここにはその戦争で多くの人々が流した血と涙がしみ込んでいます。ここはまさにその土地の上なのだということを日常感じながら生活していましたが、道について先人たちの生活を思いやることはありませんでした。では会津中街道は「人が生きて来た舞台としての道路」であると同時に「戦争の舞台となってしまった道」でもあるわけですね。

「伊藤」はい。綱淵謙定の「戊辰落日」では板室の戦い、立松和平の「ふたつの太陽」では三斗小屋の様子が描かれています。共に後世語り伝えられた事件ですが、勿論記録にも残らない沿線住民との出来事・事件は無数にあったはずです。「百村本村」出身の、あるおばあさんから聞いた話ですが、彼女の祖母が少女だった頃、路上で柿を売っていると、峠を越えて来た会津藩兵は「おっかなくねぇぞ、おっかなくねぇぞ」(恐がらなくていい)と、口々にその少女に言って通過して行ったそうです。数百の武装集団が突然現れたんですから「おっかなく」ない訳が無いのですが、少女の気を和らげようとした会津藩兵のせめてもの気持ちだったのだと思いました。この様な話を本の文章からではなく、人から直接聞いたのは初めてだったので、とても新鮮に感じました。

「佐藤」戦記や、小説から過去の事実を知ることは時々あり、歴史をひも解くとはそういうことだと決めつけていましたが、戊辰戦争ぐらいだと、直接の体験談は聴けないにせよ、生きた証言が聞けるわけですね。そういうふうに歴史に触れると、実感湧きますね。この話は、まさに街道沿いに人々の生活があったことを物語っていますね。柿売りの少女も恐かったでしょうけど、戦いに向かう兵士もまた恐かったとは思いますがそんな人々のふれあいが街道にあったわけですね。

「伊藤」既に廃道となって久しい会津中街道ですが、かつては会津と関東を、最短距離で結んだ重要な路線として人馬が往来し、物資や文化の交流と共に、街道筋の生活があった事を想像してみると、自分の足で歩いて会津若松まで辿りたいと思いました。

「佐藤」さて、こうして実際歩いたりして少しずつ理解が深まってきた会津中街道ですが、伊藤さんの最も印象的な、あるいは、見どころとしてPRしたいようなポイントなどはありますか?私個人としては、那須の山奥、沼原から麦飯坂、三斗小屋宿に出るあたりの道が好きです。また、ネーミングが大好きな笹野曽里、そこから板室にかけて旧街道と思われる道を発見した時の感動を忘れることができません。

「伊藤」私も印象的だったのは、那須山中、大峠付近です。那須と会津を別けたあの場所で、人はそれぞれ何を思ったのでしょうか。また、私の自宅付近にある、赤田墓地の北に伸びる境界線こそが、街道の跡の道筋であった事を断定できた事です。それは私にとって、飛び上がるほどの大発見でした。

「佐藤」私は道、とくに街道に立つ時、その道が続くいまだ見たことのない町に思いを馳せてしまいます。ああこの道はあの町に続いているんだなあって。その気持ちが私の旅好きの原点になっているんでしょうけど、伊藤さんのようにその道が自宅付近を通っていたとなると、ぞくぞくしちゃうのは当然ですよね。またその道が歴史のある幻の道だったりするわけですから、ロマンを感じてしまいますよね。

「伊藤」はい。道跡は残っていませんが、自宅のすぐ近くを通過しているのは間違いありません。私が住んでいる西那須野地内において、会津中街道の道跡は、全くと言って良いほど残っていません。それは山林開拓・開発によって、道跡が消失してしまったからです。私の自宅がある上赤田部落の何処かを通過していたはずなのですが、長い間謎のままでした。赤田墓地の北へ伸びる境界線こそが、会津中街道の道跡そのものである事を発見した私は、「狩野郵便局あたりで国道400号線を横断している・・」と思い至りました。なんと、自宅から100メートルも離れていない地点でした。現在は住宅があり農地が広がっている地点ですが、その場に立つと感慨深いものがあります。かつてを想像し創造する事は、大切な事だ と思います。

「佐藤」そうですよね。まずその場所に立つということが大事ですよね。そこで考えた方が机上であれこれ考えるよりいいものが見えてくることがあります。会津中街道全体を通してその場所、その土地に滞在して地理的条件や歴史資料に基づいてゆっくり検証してみたいものですねえ。

「伊藤」私もそう思います。その現場に立って五感で感じる・・そこから見えてくるものが大切だと思います。歩きながら考えるのって、いろいろ発見があって楽しいですよね。自宅の西那須野から街道を辿って歩き、起点の会津若松まで、2度も佐藤さんと徒歩旅行が出来た事は、終生忘れないと思います。

「佐藤」会津中街道の行程を通して歩くのは、ほんとうに贅沢な旅だと思っています。しかし、街道のすべてを解きあかしたわけではないので、まだ旅は続いていると考えれば、何年もかけて旅をしているわけで、こんなにすごい旅は他にないですよね。会津中街道のすべてを知りたいけれども、旅は終わらせたくない気がします。

「伊藤」じっくり時間をかけて「会津中街道」を観ていきたいと、私も考えています。現在、車を使えば十分日帰り可能な距離ですが、道中、歩いてこそ実感できる様々な発見があり、同じ若松に到達しているのにその達成感はまるで違います。かつて、人はどんな思いでこの道を歩いたのでしょう・・。私の夢は会津中街道が開通した300年前に想いをはせ、約120キロの全路線を実地確認する事なので、その夢が続いている今もなお、私の旅は続いているのだと思います。この作業を飛躍して考えるなら、かつて「会津中街道」を作った人、その時代を通過した人との「対話」であると思います。


●2005年


「佐藤」・・・ホームページを作ってからもう3年も経ってしまいましたが、なんだかすごい展開になっていますね。

「伊藤」そうなんです。こんなに多くの方々と楽しく一緒に歩けるようになるなんて、思ってもみなかったことです。 5年前には、このトークの中でも、『こんなマニアな人たちは、他にいるはずありません。 』なんて言っちゃいましたけど、それがいたんですよねえ。

「佐藤」白石さんと小林さん。この2人はすごい。すごすぎる。

「伊藤」まったくです。知識、体力、意欲、行動力、好奇心、どれをとってもかなわないです。それにすでに2人で会津まで歩いちゃってるんだから。

「佐藤」この2人と出会えたのは本当に大きな出来事でした。また、一緒に歩きながらたくさん学べて、歩くたびに大きな収穫があります。ます、われわれが歩いたコースとだいぶ違っていたりするしね。

「伊藤」起点の阿久津河岸から一緒に歩いてとうとう大峠を越えたけど、会津までまたみんなと一緒だと思うとわくわくしますね。

「佐藤」本当ですね。回を重ねるごとに楽しみは増すばかり。坂本さんの言葉を借りれば、「一行程を終える度に思い出が増えて、いい仲間になって、最後まで踏破出来た時は大きな家族になっている。 」ということですね。


●2007年春


「佐藤」私たちの活動が何度か新聞に取り上げられましたが、今回はなんと全国紙です。ちょっと元気が出ました。伊藤さんは気分はいかがですか。

「伊藤」何人かに伝えたら、みんな「見た!」といって喜んでくれました。初めて踏破してから、まもなく満19年。こんな展開になるとは、当時は予想もできませんでしたね。

「佐藤」全国には旧街道に関係する団体が多くあるのですね。

「伊藤」好きな人、いるんですね。

「佐藤」それぞれの団体が個性的な活動をしていますね。

「伊藤」その中でもうちは最も手弁当な活動ですね。

「佐藤」今回は会津中街道倶楽部の名前が全国に10,000,000個も一度に出回ったな んてすごいですね。

「伊藤」ほんと! すごいです。この紙面も、いつかまた、大きな意味を持って来ると思います。我々の過程の一里塚のようなものです。

「佐藤」他の団体を垣間見ることもできて、収穫のあった掲載でした。われわれのやっていることは間違ってないし、続ける価値のあるものだと思いました。

「伊藤」まったくその通りです。どんな場にあっても、自信を持って言えます。これも、参加される皆様のひとりひとりのご理解と情熱のおかげです。これからも、道中安全、楽しく道を深めたいです。


付録
写真展「會津への道」(1995)
伊藤と佐藤のコメント

伊藤のコメント「會津への道」佐藤のコメント「會津への道」によせて