野際 のぎわ
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1990年代の野際宿東側県道 |
近年街道や一里塚が整備されました |
会津中街道の開削にともなって松川村駅の隣駅として元禄8年(1695年)に作られた村です。五十里湖(いかりこ)の出現で通行不能になった会津西街道から十軒の家が越して来ましたが、戊辰戦争で全戸が消失してしまったたそうです。現在は数戸の民家があるだけの寒村です。1990年代から治水工事・道路工事が大規模に行われ、峠に向かって一般車、そしてマイクロバスまでもがかなり奥まで入れるようになりました。
2005年に、地元の方々に街道や一里塚をあらためて整備していただいたので、旧道や一里塚がたいへんわかりやすくなりました。観光ポイントとなっている観音沼とあわせて、多くの観光客が訪れています。
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観音沼一里塚北塚の奥に南塚の上部 |
観音沼一里塚南塚の西側から北塚を臨む |
野際宿と大峠の間には中峠があります。このあたりは、戊辰戦争の折、三斗小屋宿及び大峠の戦いから退いてきた会津藩青龍足軽四番隊の隊長であった有賀左司馬が、駒返坂付近で敵の銃弾を受け戦死したとき、半月型にえぐられた大きな古木を血に染めたという伝説の残るところです。
「三斗小屋温泉誌」に・・「中峠は会津の将、有賀左司馬の戦死の地であり、その遺跡には砲弾に 打ち抜かれた楢の木と石仏があったという。野際の人に伺うと木は朽ちてなくなり石仏は見かねかったという」とあります。
さて、その「見かねなかった石仏」を見つけたいと宮内と佐藤と小林の3名は、次回の歩く会の下見をかねて2005年10月23日に中峠と思われる山中を探索しました。雨が降っており、コンディションは最悪でした。3人は前回、旧街道と予想しながらもやり過ごしてしまっていた道を再び訪れ、何か確証を得ようと考えていました。しかし、その時もそこが中峠であるという確証はなかなかありませんでした。宮内と佐藤も必死に小林に続いて冷たく濡れた笹薮をこいで歩いていました。古道の痕はあるものの、それ以外何もみつかりませんでした。
あまりに薮がひどいので諦めかけて先へ行こうとしていた矢先のことでした。小林が「ここで(石仏が)ほしいな〜」と言って少し登った次の瞬間、その声は「あったーっ!」という歓喜の声に変わりました。大雪のために前のめりに倒れていた石仏を発見したのです。山の奥の、キノコ採りの者さえも通らないような薮の中、倒れている石仏が見つけだされた一部始終を目撃した宮内と佐藤はただただ驚くばかりでした。石仏はよごれていたとはいえ、地に臥していたおかげか石の状態は良く、きれいでした。この石仏の右側に「宝暦五亥」と刻まれているのを確かめ、ここが伝説の中峠であると確信しました。さらに石仏の左側には「のきハ村 幸左ェ門」とありました。地元の方が奉納されたようです。
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起こす前と起こした後を合成したものです |
あとは大きな穴のある楢の大木があれば決定的なのですが、その木は1980年代中ごろに枯れて倒れてしまったそうです。そのことは前出の「三斗小屋温泉誌」の文章の採録の時、伊藤が知り合いである「野際の人」から直接隣にいて聴いています。石仏のすぐそばには周囲の落葉樹のなかにあってひときわ目立つ常緑のアスナロが1本立っています。一里塚かとも思える条件ですが、真偽は確定できません。しかしながらよく見ると、そこはこんもりとしていて、一里塚ともとれなくはない形状をしていました。そうでなくても周囲の状況と地図から峠であることは間違いないようです。そこでここをやはり中峠であると判断し、さらに考察をすすめるということにしました。
野際宿の東側には奥州駒返坂(おうしゅうこまかえしざか)があります。そこから一番近い県道には案内板があり、
「会津藩は元禄8年(1695)松川通り(会津中街道)を開削した。天和3年(1683)9月1日、日光大地震により五十里湖が出現し、南山通り(会津西街道)での参勤や廻米が困難になったためである。その道筋は、若松・面川・香塩・小塩・桑原・小出・弥五島・松川・野際・三斗小屋・板室・百村・高林・横林・上石神・山田・矢板・川崎・乙畑・氏家に至る31里10町52間の街道である。旧道は現道よりも東側に位置している。野際宿からつづらおりの坂を上りきり、下る坂を「奥州駒返坂」と呼んでいた。ここには元禄8年銘「奥州駒返坂」の碑があり往時を偲ぶことができる。険阻な大峠を越えるため、時の藩主松平正容公もこの場所で駒を返し徒歩で峠を越えたと伝えられている。」
と書いてあります。奥州駒返坂の碑があるのは県道の北側斜面を10メートルほど登ったところにあります。その場所こそが会津中街道であり、その付近では県道と平行して通っています。
日暮しの滝は、その昔、白馬の尾のように美しいことから「馬尾瀧」と呼ばれていたようです。偶然にも会津中街道が開削された元禄8年(1695年)に2段に分かれたそうで、上段が15.6メートル、下段が40メートルになったそうです。そして参勤交代でお通りになったお殿さまが、日暮しご覧になった、またはなりたいと思われた、というわけです。滝は当時のままの姿であると思われます。本当にきれいです。
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奥州駒返坂の碑 |
日暮しの滝 |
杉ノ沢

野際

大峠