川崎+境林 かわさき+さかいばやし


 川崎反町の南、一里塚跡がある境林付近は民家や工場が点在し、静かな田園地帯となっています。その東側山麓に当時のままにかなり近い状態で会津中街道が残っています。そしてそのわずか西に約300m程度の間に、JR東北本線、旧4号国道、東北自動車道が南北に走っており、昔も今も往来の続いている土地であることがわかります。

 川崎反町には現在も、旧問屋の三軒をはじめ大きな邸宅が整然と並び当時の繁栄を忍ばせています。南外れに残る道標には
境林に残る道標(60×50)
館ノ川一七 大貫良三氏南土手
「右 田所 大宮 館野川」
「左 乙畑 氏家 宇都宮」
(矢板の石仏と塔碑 地区別一覧)
(矢板市教育委員会1999より)
「右 田所 大宮 館野川」
「左 乙畑 氏家 宇都宮」
と、川崎から南に向かう人に対して書かれています。

 北外れの現在「矢板市城の湯温泉センター」の給湯所角にあった道標は施設内公園に移されています。

 元禄10年(1697年)に書かれた問屋日限定書が川崎の大桶家に残っています。これによると、川崎が矢板、山田、乙畑との人や物資の流通において大きな役割を担っていたことがわかります。またその輸送に使われたのが会津中街道だったわけです。2年前に開通したばかりのこの街道を會津新道と呼んでいたようです。1年前保科肥後守堀左衛亮様(会津藩主松平正容)が参勤交代で訪れた時の様子も書かれています。

大桶家文書  五三 覚(會津新道筋川崎、田町問屋日限定書) 元禄10(1697)

          

一、會津新道亥七月 依田五兵衛様御見分被遊
  同十月中普請入札を以御究御入用之金子御
  割付ニて道筋 御地頭様方より御出被遊候

一、川崎三町 御朱印御伝馬宿ニ被 御付三町
  十日替りニ馬次仕候御朱印御伝馬御高札ハ大町壱ケ所
  相立三町ニて相守申候

一、壱ケ月之内上十五日  川崎より水野勘八郎御領矢板村へ
     同朔日より五日迄      田町問屋 利兵衛
     同六日より十日迄      大町問屋 八郎左ェ門
     同十一日より十五日迄    新町問屋 九兵衛

一、壱ケ月之内下十五日  川崎より御領分土屋山田村へ
     同十六日より廾日迄     田町
     同廾一日より二十五日迄   大町
     同廾六日より晦日迄     新町

  右之通日限御定會津新道兼那須郡塩原湯治馬次仕候

一、川崎より乙畑へ壱里廾八丁四拾壱間 本馬 壱疋 五拾三文
                   から志り壱疋三十三文
                   人足賃   貳拾七文

一、同所より矢板村江貳拾五丁五間   本馬 壱疋 貳拾壱文
                   から志り壱疋 拾三文
                   人足賃    拾壱文

 但 矢板村より山田へ壱里四拾壱間  本馬 壱疋  廾三文
                   から志り壱疋 十三文
                   人足賃    拾七文

一、同所より山田へ壱里貳拾九町貳拾間 本馬 壱疋 五拾三文
                   からしり壱疋 卅四文
                   人足賃   貳拾七文

  右之通子正月より駄賃相定候御制札相立申候

一、會津新道江罷出候御米ハ新町九兵衛田町利兵衛貳ケ所ニて
  請拂仕筈相定子十一月中より會津御米右両所ニて請拂仕候

一、奥州より之米荷物本海道原方尾頭通より罷出候て
  何方へも何方へも田町壱ケ所ニて請拂仕候筈相定申候

一、去年中 保科肥後守堀左衛亮様御通り
  被遊候其節御代官様御壱人御足軽衆貳人其外道橋
  掃除ニ御足軽衆壱人為御○○○御出被遊候

  右之通相違無御座候以上

  元禄拾年丑年      川崎田町問屋 
                  利 兵 衛    判
               同大町問屋 
                  八郎左ェ門    判
               同新町問屋 
                  九 兵 衛    判







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