石上 いしがみ


小野崎家に伝わる、殿様より拝領の看板

 箒川(ほうきがわ)の流れに沿うように北西から東南にかけて細長い集落を形成している石上地区は、その上流の方を上石上、下流の方を下石上とわけています。しかしながら家並みが連続しているので見た目には境目はわかりません。集落と箒川の間には広いところで直線で巾1キロメートルにも及ぶ広大な田畑が広がっています。川岸と集落の高低差は地図から読むと約5メートルです。現在田畑になっている土地は、当時は現在のように河川が管理されておらず大水のたびに冠水したと思われますので、集落を形成するには不向きであったと思われます。もしくは、当時は本流がもっと集落に近いところを流れていた可能性も考えられると思います。

 いずれにせよ、川の大きさと山田との位置関係から、渡しがあったのはまちがいありません。山田が矢板、川崎に比較的近いこともあってか、殿様は山田ではなく、この上石上に宿泊しています。宿泊したのは現在の小野崎家で、その時に拝領した「会津中将宿」と書かれた看板が残されています。2004年11月21日に、この小野崎さんのお宅を訪ねる機会を得ました。この家宝の看板を見せていただいた時に地元紙の「下野新聞」から取材を受け、3日後の朝刊に載せていただきました。

 石上地区の北側は、横林との連絡のため上石上の北はずれから現在の西那須野塩原I・Cの辺りをかすめてほぼ真北に向かって旧街道がのびています。I・Cの南側は、開拓が入り、現在は四区流通工業団地となっています。したがって道路は碁盤の目のように整備されており、旧街道を辿れるところは少なく、矩形をななめに進む旧街道を目で確認しながら舗装道路をジグザグ進むことになります。

 そんななかでもその工業団地と上石上地区の間の区間は比較的旧街道が残っているところです。林の中には下大場一里塚が一対で残されており、この道が間違いなく会津中街道であることを教えてくれています。

 上石上と北の宿横林の間の距離は2里13丁10間あり、わりと平坦なこのあたりの里程としては問屋間の広い地区となっています。前出、下大場一里塚と北の横林一里塚の中間に一里塚があったと思われますが、その地点はちょうど西那須野塩原I・Cに重なっています。





大貫の一里塚

石上

山田