阿久津河岸 あくつかし


現在の阿久津河岸跡

 氏家には交通の要衝としてのもう一つの顔があります。それは、現在の市街地の南に位置する阿久津河岸(あくつかし)です。氏家宿の南にあった木戸番所跡の道標の「右 江戸海道」にしたがって進むと、阿久津河岸に行き当たります。阿久津河岸は現在の阿久津大橋の南側の鬼怒川左岸一帯にありました。鬼怒川から運河(ミオ)を引き込み、水際に蔵が立ち並んでいました。

 江戸までの水路はこの阿久津河岸を起点に、実に48もの河岸がありました。この水路を整備したのは徳川家康です。幕府を開くと同時に水運が機能したわけではないようですが、時間が経つにつれて、米を中心に、諸地域の物産や建築資材等が江戸に運ばれていったようです。水路の整備は、同時に治水や軍事の面からも必要不可欠でありましたが、世の中が安定してくると、やがて水上交通は徴税目的によるところが大きくなっていったようです。

 さて、陸上交通、水上交通の要となった氏家は、人もお金も集まり、地元の問屋はたいへんな繁盛ぶりであったようです。 しかしながら、その繁栄を物語る史料は河岸の東部にひっそりとたたずむ船玉(ふなだま=魂)神社のみを残すだけとなっています。 水運事故防止を願って建立されたこの神社は境内が船の形をしており、彫刻なども豪華であることから町の文化財の指定を受けています。境内の灯籠の台座に、「右奥州街道、左江戸道、此方河岸道」と彫られています。

船玉神社

左江戸道、此方河岸道 右奥州街道、左江戸道


 氏家宿の旧街道起点の番所と阿久津河岸との間の街道は、現在閉鎖中の氏家製靴工場の敷地内を縦走するように通っていたそうです。この道に近い道をたどろうとすると、勝山城跡に近いところにミュージアム氏家の前を通ります。ここには阿久津河岸に関する資料が数多く残されています。





氏家

阿久津河岸