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会津中街道
出典: 会津中街道事典『中街道ペディア(Nakapedia)』



 
 現在完全に廃道となっている区間の写真。
 
 登山道からもはずれ、
 笹薮に突入するように進む。
 
 このような
 道跡だけがかろうじて残る区間が現存する。
 
 会津中街道(あいづなかかいどう)とは、
 栃木県さくら市と会津若松市をつなぐ
 交通路のことである。  



目次

1 概要
2 歴史
2.1 会津中街道の開削
2.2 短かった全盛期
2.3 会津中街道の衰退
3 会津中街道を利用した参勤交代
4 会津中街道辞典


概要

会津中街道はいわゆる会津五街道には属さない。江戸及び関東を結ぶ主要道であった会津西街道の不通により臨時に開削されたが、利用された期間が短かったために他の街道とは若干異なった履歴を持つ。 顕著なエピソードや有名な観光ポイントもなく、幻の街道と呼ぶにふさわしいが、ダムの底以外は探索が可能である。 交通の発達・衰退にあわせて姿を変えた部分は少なくないが、一方で生活道路や登山道として残っている部分も多い。また、一部の地方自治体では会津中街道を顕彰する動きも出ている。

歴史

過去の設置・建設のいきさつから、下記の通りの三つの期間に分けて概要を説明する。


会津中街道の開削

 会津中街道は、会津若松と氏家(栃木県さくら市)とを結ぶ約123kmの道である。元禄8年(1695年)、自然災害で通行できなくなった会津西街道に代わる道として開かれ、主として会津藩や会津南部の幕府領(南山御蔵入領)の廻米(江戸や大阪に運ばれる米)輸送に利用された。名称は、白河へ通じる会津東街道と今市宿へ通じる会津西街道に対して会津中街道と呼ばれ、単に会津街道とも言い、会津側では南山松川新道・松川通り・野際新道・宇都宮街道などとも呼ばれる。

 会津藩の廻米は、元禄年間(1688〜1730年)で年間約11万俵に及んだ。この迴米は会津西街道(会津若松〜今市または氏家)や奥州街道・原街道その他の道を利用して運ばれていた。ところが天和3年(1683年)、大地震によって会津西街道沿いの戸板山(藤原町)が崩れ落ち、鬼怒川上流の男鹿川を堰き止めてしまった。そのため現在の五十里湖辺に大きな湖(南北約3,6km)が出現し、男鹿川沿いを通っていた会津西街道の交通が途絶してしまった。

 会津藩では湖に舟を浮かべて交通の便を図ると共に、多くの廻米を白河経由に切り替えたが、輸送は思うようにならなかった。11年後の元禄7年(1694年)秋、沿道の米問屋の経営者らは、新道開削を藩に願い出た。これによると、杉野沢(南会津郡下郷町松川字杉ノ沢)から板室(黒磯市)までの7里(約28km)の新道を開けば阿久津河岸(江戸への荷物輸送路として、鬼怒川舟運との連絡が絶対必要な条件であった)まで会津西街道より7里余短縮できる上うえ、沿道の村々でも利益が見込めるため那須郡の者からも申し出があったという。

 このころ会津藩の財政は苦しく、借金政策でようやくその場をしのいでいる状態であった。このような時、幕府から直接大部分の費用が出る新道開発は、まさに一挙両得になった。会津藩は全力をあげて取り組み、道筋を調査のうえ、実地調査の絵図や予算を正式に勘定所へ提出し、元禄8年(1695年)の春許可がおりた。

 工事の請負は、入札によって会津若松の町人、横松九兵衛が1384両3分で落札した。工事の総指揮は幕府の南山代官・依田五兵衛があたり、元禄8年9月5日に着工され10月9日に完成した。10月15日には依田五兵衛が新道を通って江戸に行き、新道開通を報告した。

 中街道は、西街道の会津若松〜氏家間よりも約28kmも短かい。しかし、大峠(標高1468m)・三斗小屋(同1100m)・沼原(同1240m)・板室(同600m)と、下野(栃木県)岩代(福島県)国境前後で上り下りが激しく、急坂が多い。加えて冬は雪が多く、交通が途絶する事もあり、大変な難所である。

 会津若松〜氏家間には、当初18の継立場が設られた。各継立場には問屋が開設され、廻米を主とする物資の輸送を行った。また当初、会津西街道に代わる道として大名の参勤交代にも利用(田代・小松川経由)されたため、本陣(大名・公家・幕府役人などが宿泊する旅館)や脇本陣(本陣の予備にあてた旅館)が設けられた所もあった。これがどこに設けられたか全体的に知る事はできないが、板室(黒磯市)には本陣・脇本陣があったことはわかっている。また上石神(大田原市)の米問屋だった小野崎家に「会津中将宿」と記した標札があることから、小野崎家が本陣だったと考えられている。

短かった全盛期

 会津中街道は会津西街道に代わる重要な道となり、廻米輸送や参勤交代に利用された。各継立場は物資の輸送で賑わい、例えば山間部の三斗小屋(黒磯市)には24戸もの家が建った。元禄12年8月、会津地方を暴風雨が襲い、会津中街道はかなりの被害を受けた。そのため元禄12年(1699年)頃には、参勤交代を白河経由に変更した。宝永元年(1704年)、脇街道に編入された後も、商人・荷の往来や廻米が相当量運送されたと言われている。

会津中街道の衰退

会津中街道が開かれてから28年後の享保8年(1723年)大地震の発生により、五十里湖が決壊し、その後会津西街道が復旧すると、道の険しい会津中街道の交通量は激減した。

 ところで、会津中街道の成立には、必然的に会津西街道との対立・競合を生んでいた。安永8年(1779年)からの両街道の荷物論争は長く続き、西街道は氏家宿に対し、会津方面へ下る諸荷物を西街道に送って欲しいと要望し、会津藩にも訴えた。また宇都宮藩や幕府にも出訴したが、会津藩も一方のみを優先できない矛盾を抱え続けていた。争いは幕末まで続いた。しかもこの両街道を各地で結ぶ脇道も次第に多くなり、対立は激しさと複雑さを増した。

 慶応4年(1868年)戊辰戦争に際し、中街道沿線の村々は戦禍に見舞われ、甚大な痛手を被った。この時三斗小屋宿は全戸焼払われ、板室宿も2戸残して全焼した。

 その後も、会津南部と阿久津河岸を結ぶ近道として明治中期まで利用されたが、近代に入って次第に衰退し、明治37年(1904年)磐越西線の開通により、荷物輸送路としての使命を終えた。




会津中街道を利用した参勤交代

大   名 年   月 行 き 先 備   考
1 会津藩主松平正容 元禄 9年(1696)4月 会津〜江戸 総数350〜360人
2 村松藩主堀右京亮 元禄10年(1697)5月 越後〜江戸 村松藩は越後国
3 会津藩主松平正容 元禄10年(1697)6月 江戸〜会津
4 会津藩主松平正容 元禄11年(1698)5月 会津〜江戸
「三斗小屋温泉誌」により作成




会津中街道辞典

一里塚(いちりづか)-----主要道の側に一里毎に旅行者の目印として設置した塚。起源の中国では槐(えんじゅ)の木を植えたが、日本では江戸時代に榎などの木が植えられて整備された。なお、日本では平安時代の末期、奥州藤原氏が白河の関から陸奥湾までのみちに里程標を設置したのが起源と言われている。

口留番所(くちどめばんしょ)-----主に街道上の藩境におかれ、旅人の取締りや物資の監視を行った。会津中街道には野際にあった。会津藩では漆、蝋、鉛、熊皮、巣鷹、駒、紙、女が留物とされ、手形がないと藩外へ持ち出すことができなかった。

木賃宿(きちんやど)-----一般庶旅行者用の自炊宿泊施設。木賃とは、湯代、部屋代、薪燈代の他、味噌汁代なども含まれた。

検断(けんだん)-----宿場町としての城下七町に出入りする荷物を監督し、町人から軒役(税金)を徴収を兼ねて、町内の取り締まりの責に 任ずる為に、一町に一人、全ての町に検断があった。一応は「各町内投票相勤務」とされ、その交替は選挙によって行われる規定があったが、支障のない限り特定の 素封家が世襲し交替も町内の実権者の間でたらいまわしされた。実質的な城下町の経済警察と、名主的な重要な町役人であった。

高札場(こうさつば)-----法令を板面に記して掲示した場所。

宿駅(しゅくえき)-----街道の整備に伴って参勤交代を含む旅人の宿泊と物資輸送の拠点として機能した。集落は街道に沿って両側に一戸ずつ並ぶように配置され、本陣・脇本陣、問屋が設けられる。会津中街道における各宿場と問屋名は以下の表のとおりである。

各 宿 場 と 問 屋 名
宿場(南から) 元禄8年(1695年)当時 明治3年(1870年)当時
@ 氏 家 宿 (平石)六右エ門  
A 乙 畑 宿 (永井)六郎兵衛       太郎右エ門
B 川 崎 宿 (加藤)八郎左エ門 
(加藤)九兵衛   
(大桶)利兵衛        
八右エ門
五郎左エ門
直重郎
C 矢 板 宿 (坂巻)八左エ門 八郎右エ門
D 山 田 宿 (高野)      

(伊東)             
七左エ門

治郎右エ門
E 石 上 宿 (小野崎)静六         東助
F 横 林 宿 (東泉)五郎左エ門       五郎右エ門
G 高 林 宿 (菊地)              長右エ門
H 百 村 宿 (   )甚五右エ門                        平佐右エ門

八左エ門
I 板 室 宿 (   )  
J 三斗小屋宿 (  )  
K 野 際 宿 (   )谷右エ門  
L 松 川 宿 (佐藤)新助  
M 弥五島宿 (   )六兵衛  
N 小 出 宿 (   )弥五右エ門  
O 桑 原 宿 (   )四郎右エ門  
P 小 塩 宿 (   )藤兵衛

(   )隼人
 
Q 若 松 宿 (   )  


茶屋(ちゃや)-----旅人向けの休憩場でお茶の他、一膳飯、お酒なども売っていた。会津中街道では、舟子と杉ノ沢にその跡地が残っている。

問屋場(といやば)-----江戸時代の街道の宿場で人馬の継立、助郷賦課などの業務を行うところで、駅亭、伝馬所、馬締ともいった。業務の主催者は問屋と称され、その助役の年寄、さらに人馬の出入りや賃銭などを記入する帳付、人馬に荷物を振り分ける馬指しなどの者がいた。通常の時は交代で出勤するが、大名行列などの大通行がある時は全員が詰めることになっていた。

旅籠(はたご)-----もともと旅の時、馬の飼料を入れる籠のことであった。それが旅人の食料等を入れる器の意味になり、さらに食事を提供する宿屋を言うようになった。江戸時代の街道には宿場ごとに多くの旅籠があって、武士や一般庶民の泊まり客で賑わった。次第に接客用の飯盛女を置く飯盛旅籠と、飯盛女置かない平旅籠に分かれていった。

本陣(ほんじん)-----もともとは戦場において大将の位置する本営のことを言ったが、やがて武将の宿泊するところを指すようになり、宿場大名や旗本、幕府役人、勅使、宮、門跡などが使用した宿舎の名となった。本陣を勤める者は宿役人の問屋や村役人の名主を兼ねている者が多く、そこの主人は苗字帯刀を許され、門や玄関、上段の間等を設けることが特権のようになっていた。しかし、原則として一般の者を泊めることができず、大名が泊まることもそう多くはなかったので、江戸時代も後期になると経営難に陥る所も少なくなく、他の仕事を兼業している場合もあった。

脇往還(わきおうかん)-----江戸時代の五街道以外の主要な街道をいい、脇街道・脇道とも呼ばれた。主なものに水戸路、美濃路、伊勢路、例米使街道、日光往還、山陽道、善光寺道、矢倉沢往還などがある。五街道ほど関所の取締りが厳しくなく、女性たちに重宝された。

脇本陣(わきほんじん)-----本陣の予備的施設で、大きな藩で本陣だけで泊まりきれない場合や、宿場で藩同士が鉢合わせになった場合の格式の低い方の藩の宿として利用されるなど、本陣に差し支えが生じた場合に利用された。それ以外の時は一般旅客の宿泊にも供した。規模は本陣よりも小さいが、諸式はすべて本陣に準じ、上段の間などもあり、本陣と同じく宿場の有力者が勤めた。